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 人はさまざな記憶を抱えている。
 どうしても忘れられないもの、時々思い出すもの、本当にあった出来事かどうか今では怪しくなっているもの、感違いしたまま憶えてしまってるものも数多くあるに違いない。むしろ暖昧で不確かな記憶の方がかえって信用出来ると思う時もある。記憶が蘇った時の真実感は、現実に進行してるリアリティよりも強烈で鮮やかな印象を受けることもあるから、記憶は面白い。

 四十数年前の夏、四国の祖谷渓を歩いている時に、眼前に広がる一本の道を前にして、突然、以前歩いたことがあるとの想いが込み上げてきた。深い青天にフワリと雲が浮いている。人が一人歩けるだけの細い道が、緩やかに蛇行しながら彼方へと続いている。道の右手中程に枯れた樹が一本立っている。ただそれだけの何の変哲もない風景だ。
 この道を目の当たりにした途端、懐かしきが込み上げてきた。この懐かしさは一体何処から来たのだろう。
嘗て、似たような道を歩いたからだろうか。本当に出会ったのではなく映像や写真で見たことがあり、そのまま実際の体験と思い込んで心の底に沈んでいたのだろうか。何故、懐かしいと感じたのか。その懐かしきは何ゆえに心に残っていたのだろう?
 とても個人的な感想だから同じような感想を持つ人はいないと思い、懐かしい道の写真は、発表することもなく、ずっと仕舞っておいた。
 昨年、フィルムを整理しているうち、久しぶりにこの道の写真を見た。すると、四十年以上の時聞が経過しているにもかかわらず、撮影した時に感じた不思議な懐かしきが再び蘇ってきた。
 道の写真を前にしたとの懐かしさの正体は何なのか?懐かしいと感じる幾つかの要素があるはずだ。

 道を撮ってみたくなった。

 現実世界から過去の記憶を浮び上がらせるのは、写真が持っている本来の魅力の一つだ。しかし、懐かしいのは個人的な思い出の断片にしかすぎないから、どこかで個人的な感情を超えなければならない。道は私の思いとは無関係に存在しているのだから。
 道の写真を撮っているうちにこう思うようになった。
 私が道に惹かれる理由は、道の光景に安心と不安の両方が閉じ込められているからそう感じるのではないだろうか、安心と不安という、矛盾するこつを同時に自覚するから乙そ道は魅力的なのだ。
 現在そこに在る道を前に足を止め、写真を撮るというのは実に暖昧な行為だった。しかし、この不確かな暖昧さが私には写真的リアリティの魅力に通じていると思われて仕方ない。(『常ならむ』より)

会期:2017年4月28日(木)〜 6月26日(月)
十文字美信 写真『常ならむ』ワーキングプリント展

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