写真家にとって、強く興味を惹かれる被写体のひとつは「顔」だと思う。特に人聞を被写体として考えた場合、その人の人格を表す全ての要素が「顔」に集約されていると言っていい。通常、その人らしさが出現する一瞬の表情を撮影するために、写真家はあらゆる手を尽くす。ところが、「その人らしさ」、の「らしさ」とはいったい
何だろう。被写体の特徴や個性などが集約されたと感じられる表情は、その人の魅力が現れたのではなく、撮影
者自身の興味や好みを一方的に押しつけた結果ではないのかと思う時もある。被写体が本来持っている可能性の
内から、一方向に決めつけてしまったうしろめたさも感じられる。むしろ、何も現れていない、どちらかと言え
ば感情を内に秘めた無表情の顔にこそ、その人の無限の可能性を感じることだってある。

 人聞や動物など、生きているものの顔だけに心惹かれるのかというと、そんなことはない。能の面、浄瑠璃の人形、仮面などにハッとするととがあるし、本来顔として存在していないもの、自動車のフロントグリルやある種の岩、野菜にだって顔を認めて驚く。いったい、顔として認識するための条件は何か?目、鼻、口が揃っていること?いや、壁に画鋲が三点打ってあるだけで顔を連想するし、場合によっては立体的に重なった建物の影にでも顔を読み取ることがある。人間の脳内にはあらゆる造形から、顔だけを認識し感じ取る特別な細胞が存在してるのではないかと思ってしまう。

 こんなことを考えている時期に、神奈川県厚木市七沢を歩いていて路傍の石仏が自にとまった。私は鎌倉に住んでいるので、自宅周辺谷戸の道端には石仏が幾つもある。今までにも何度か目にしたことがあるはずなのに、存在を気にしたことはなかった。それが、どうしたことか七沢の石仏に心惹かれた。

 理由はその時わからなかった。が、後から考えると、石仏に顔が無かったからではないかと思った。首から上が欠損して無くなってるのではなく、顔としての面は在るのに二百年近い時間の経過と風雪で、目、鼻、口が磨耗してのっペらぼうの顔になっていた。その時の私の意識や感情が、石仏の見えなくなった目鼻に、失われた顔の行き先にアクセスしたかったのだろうか。

 過去の経験に蓄積され、普段は眠っている私の無意識の底辺から、のっペらぼうの顔を見たことで突発的にある感情が湧き起こった。ある感情の「ある」とは何か?可愛いとか、誰かに似てるとか、昔見たことがあるとか、明確な理由は自分にもわからない。わからないからこそ、のっペらぼうの顔を写真に撮りたいと思った。

 撮影に使用したカメラは8インチ×10インチのディアドルフ、蛇腹を限度いっぱいまで伸ばして、顔だけをクローズアップした。顔としての想像を突き抜けて、像を組成する一粒一粒の石の粒子まで見えるように意識した。
「白仏」と名付けた理由は、のっペらぼうの中でも特に白い仏に心惹かれたからだ。(『常ならむ』より)

会期:2017年4月28日(木)〜 6月26日(月)
十文字美信 写真『常ならむ』ワーキングプリント展

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